コリン・ウィルソン|広島市 家庭教師の本田

コリン・ウィルソンの作品

小説のために

・大学で教え、フォークナーがメイラー世代は「上手に書くが、しかし何も言うことがない」と述べたことを想起した。 あらゆる人間の魂はすでにあらゆる知識を持っており、問題はそれをどう引き出すかだ(ソクラテス)というのと同じだ。

・ヘンリー・ジェイムスの『ロデリック・ハドスン』は才能にあふれた主人公がパトロンを得て自己の才能を どう発展させられるか、という問題を提起している。 しかし、主人公は可愛い娘にのぼせて、婚約者をないがしろにし、恩人を落胆させたあげく、崖から落ちて死ぬ。 一度人物を作り、はっきりした状況に入れることは、可能性を限定することになる。 経験ある作家ならば、ひっかかったと感じればため息をついてもう一度始めることだろう。

・小説は、はっきりした自己像を作り出そうとする作家の試みなのだ。

・人は己の顔を見るために鏡を用い、魂を見るために芸術作品を用いる(ショー)。

・作家志望者が答えるべき質問は「誰になりたいか?」である。 ジュリアス・シーザーか、レオナルドかコロンブスか、シェイクスピアか、チャップリンか。

・田舎の牧師の娘が、午後、あまりすることもなく雨を眺めながら『パミラ』を開く。 それは、あたかも彼女が家を抜け出し、ミスター・Bの田舎家へ行き、数時間自分がパミラの人生を送ることを意味する。 リチャードソンは散文を、行動よりは思考と感情、つまりセンチメントを語る媒体として用いた最初の人間だったのである。

・女たちはルソーが書いたものなら一枚の紙にでも接吻し、彼が飲んだコップならいくらでも払おうとした。 『ジュリー、または新エロイーズ』はすさまじい悲しみと憧れの気分というものを初めて文学に持ち込んだのである。 人間は神か、そうでないならどうしてこのような恍惚、自由の感覚を持てるのであろうか?

・小説家をカメラマンとすれば、リチャードソンはカメラを外に向け、ルソーやゲーテは内に向けた。 しかし、内に向けられたカメラは前進の動きを失い、単調に陥りやすいという難点がある。

・成功した小説を書く基本ルールは、緊張を構築し、それから雷が落下するように緊張を解放することである。

作者は、SF、ベストセラー文学、そして実験小説への嗜好が強すぎ、 その意識の拡大、頂上経験、狭い視野と広い視野の交錯、思想性などの主張は慎重で懐疑的に見ざるをえない。

家庭教師の本田

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